「ラフィット」という名を聞けば、世界で最も名高いワインのひとつを思い浮かべる人は多いでしょう。けれども、その長い名声を、ひとりの創業者が築いたわけではありません。
シャトー・ラフィット・ロートシルトの歩みをたどると、目に入るのは華やかな称号や高価なボトルだけではありません。
畑をまとまりある葡萄園へ変えた人、宮廷や国外へ名を届けた人、すでに高い評価を得ていた土地を買い受けた人、戦争で傷んだ畑を立て直した人、そして気候が変わる時代に、数十年先の葡萄樹を思い描く人がいます。
もちろん、歴史に名が残りやすいのは所有者や当主です。しかし、ワインは家系図だけでは造れません。
畑で樹を見守る人、収穫する人、樽を管理する人、土地の記憶を次の世代へ渡す人。その積み重ねが、一本のワインに「続いてきた時間」を与えます。
では、ラフィットを築き、守り、変えてきたのは誰だったのでしょうか。13世紀に現れる古い名から、セギュール家、ロートシルト家、現代のチームまで、いくつもの手に渡された時間を追ってみます。
「創業年」では語れない——ラフィットは、古い土地の名から始まった

シャトーの歴史を紹介するとき、「何年創業」と一つの年を置けば分かりやすく見えます。ところが、ラフィットには、その言い方がうまく当てはまりません。
公式沿革は1234年を最初の記録として掲げています。ただし、この年に現在のシャトーや葡萄園が一挙に創業された、と受け取るのは正確ではありません。中世の史料に現れるのは、ラフィットという土地や所領に結びつく名です。
現在へつながる大規模な葡萄園の輪郭が明瞭になるのは、そこから数世紀後、17世紀のことでした。
「Lafite」は、ガスコーニュ地方の言葉で小高い場所を表す「la hite」に由来すると説明されます。メドック北部、ポイヤックの北端にあるこの土地は、ジロンド河口を望む砂礫質の高まりに位置します。水はけのよい砂利の層と、葡萄が深く根を伸ばす環境は、後世に「テロワール」と呼ばれる価値の核になりました。
とはいえ、優れた条件があるだけで、名園が自然に生まれるわけではありません。土地を読み、植える場所を選び、葡萄畑として整えていく人間の判断が必要です。
その転機を担ったのがセギュール家でした。
17世紀後半、ジャック・ド・セギュールの時代に葡萄畑が広く整備され、1680年ごろの文書には新しく植えられた区画を含む葡萄園の存在が確認されます。つまり、ラフィットの出発点を一つだけ選ぶなら、1234年は「名と土地の記録」、17世紀後半は「大きな葡萄園が形を得た時代」と分けて理解する方が実像に近いのです。
この違いは小さくありません。「古いから偉大なのではなく、古い土地を葡萄園として育てた人がいた」。その視点を持つと、ラフィットの歴史は家柄の物語から、長い土地づくりの物語へ変わります。
セギュール家が結んだ、土地と家のネットワーク
ジャックの息子アレクサンドル・ド・セギュールは、1695年にシャトー・ラトゥールの相続人マリー=テレーズ・ド・クローゼルと結婚しました。相続と婚姻によって、後にボルドーを代表することになる複数の葡萄園が同じ家系のもとに結ばれます。
その次の世代、ニコラ=アレクサンドル・ド・セギュールは、ラフィットの品質と販路を押し広げた人物として知られます。彼は「葡萄の王子」と呼ばれたと伝えられ、ラフィットはフランス宮廷で名声を得たとされます。
ただし、「王のワイン」という呼び名や宮廷での逸話には、後世の公式物語として語り継がれた部分もあります。人物像を彩る伝承と、畑の拡張や市場評価を示す記録は、同じ確かさで扱うべきではありません。
確実に見えるのは、18世紀までにラフィットの名が所有者の邸宅を越え、ワインそのものの評価として流通していたことです。名声は家の内側だけで生まれたのではなく、仲買人、商人、船で運ぶ人、遠くの食卓で選ぶ人によって外側からも形づくられました。
名声を「制度」が追いかけた——18世紀の評価から1855年格付けへ

ラフィットが1855年の格付けで突然、有名になったわけではありません。むしろ格付けは、それ以前から市場に積み上がっていた評価を、一覧という形で固定した出来事でした。
18世紀後半、アメリカ合衆国の駐フランス公使だったトーマス・ジェファーソンは、フランスの農業とワインを調べる旅に出ています。1787年のボルドーに関する記録で、彼はラフィットをマルゴー、ラトゥール、オー・ブリオンとともに「第一級」の葡萄園として挙げました。
ジェファーソンがラフィットのシャトーを訪問したと断定できる記録は慎重に扱う必要がありますが、少なくとも彼がラフィットを最上位の一つと認識し、購入を手配したことは、当時すでに国外へ評価が届いていた証しです。
その後、フランス革命期には所有の連続性が断たれます。
当時の所有者ニコラ=ピエール・ド・ピシャールは恐怖政治のもとで処刑され、ラフィットは国有化されました。1797年に売却され、19世紀前半には複数の名義や管理者が関わる時期を迎えます。
ここで重要なのは、所有者が変わっても、葡萄園としての評価まで失われなかったことです。日々の運営を担った管理者や働き手、取引を続けた商人がいたからこそ、土地の名は政治の激変を越えられました。
1855年、パリ万国博覧会に向けて、ナポレオン3世の意向を受けたボルドーの仲買人たちは、主要なワインを取引価格と評判に基づいて整理しました。ラフィットは赤ワインの「第一級(プルミエ・クリュ)」に置かれます。
当初の第一級はラフィット、ラトゥール、マルゴー、オー・ブリオンの四つでした。現在は、1973年に昇格したムートン・ロートシルトを加えた五つです。
この格付けは、現代の原産地呼称制度とは役割が異なります。
ポイヤックという土地の名と生産条件を守るAOC/AOPが地域の約束事であるのに対し、1855年格付けはシャトーの歴史的な評価を階層化したものです。ラフィットは現在、その両方を背負っています。
ポイヤックのワインであることと、1855年の第一級であることは、似て見えて別の意味を持つのです。
格付けの13年後、ラフィットは再び大きな所有者交代を迎えます。ここで初めて、現在の名に含まれる「ロートシルト」が登場します。
1868年、ジェームズ・ド・ロートシルトが買ったもの

1868年8月、パリで行われた競売で、ジェームズ・ド・ロートシルト男爵はラフィットを取得しました。ロートシルト・アーカイブの記録では、ラフィット本体に414万フラン、カリュアドに30万フラン、合計444万フランが支払われています。
ここで年代を整理しておきましょう。
ラフィットの始まりは1868年ではありません。1855年の第一級格付けも、ロートシルト家が所有する前の出来事です。ジェームズが買ったのは、まだ評価の定まらない葡萄園ではなく、すでに何世代もの仕事によって国際的な名声を得ていた土地でした。
それでも、この購入は単なる名門資産の取得には終わりませんでした。土地の名に家名が重なり、「シャトー・ラフィット・ロートシルト」として150年以上続く次の時代が始まったからです。
ジェームズは取得からわずか数か月後に亡くなります。長期的な運営を自ら指揮する時間はほとんどありませんでした。ラフィットは息子たち、アルフォンス、ギュスターヴ、エドモンへ共同で受け継がれます。
創業者が理念を示し、後継者がそのまま実行したという単純な物語ではありません。購入した人物の死によって、継承は最初から複数の家族が分担する課題になったのです。
しかも、19世紀後半の葡萄畑は安定した世界ではありませんでした。1871年初めの厳しい寒波では、メドックの葡萄樹が大きな被害を受けたと記録されています。
やがてフィロキセラがフランスの葡萄畑を襲い、接ぎ木による植え替えが避けられなくなります。病害、収穫量の変動、市場での偽装や不正表示にも向き合わなければなりませんでした。
「変えずに守る」という言葉は美しく響きます。しかし葡萄園では、守るために変えなければならないことがあります。自根のヨーロッパ系葡萄を、フィロキセラに耐えるアメリカ系台木へ接ぐことは、見た目にも栽培の考え方にも大きな転換でした。
もし昔の姿をそのまま残すことだけに固執していたら、畑そのものを失った可能性があります。
ロートシルト家の継承が持った意味は、家名を絶やさなかったことだけではありません。危機のたびに、何を残し、何を変えるかを選び直す時間を引き受けたことにあります。
戦争で止まった時間を、エリーと現場の人びとが動かした

20世紀前半、ラフィットは二つの世界大戦と世界恐慌の影響を受けました。なかでも第二次世界大戦は、ロートシルト家がユダヤ系であることと切り離せません。
ドイツ占領下でラフィットは接収・徴用され、家族の管理を離れました。ロートシルト家の資産が標的となるなか、シャトーには占領軍が置かれ、地下の古酒も失われたと伝えられます。
戦時下の逸話は劇的に語られやすいものですが、確認できる核は、所有と運営の連続性が強制的に断たれ、畑と建物が損傷を受けたという事実です。
終戦後の1945年、家族はラフィットを取り戻し、翌1946年からエリー・ド・ロートシルト男爵が再建を率いました。荒れた建物を直すだけでは足りません。葡萄畑の状態を見極め、必要な植え替えを行い、醸造設備を整え、途切れた販売と信用をつなぎ直す必要がありました。
ここで、歴史書に大きく記される「エリーが再建した」という一文を、少しほどいて考えてみます。
一本の葡萄樹を回復させるのは、所有者の決断だけではできません。剪定する人、土を耕す人、収穫の時期を判断する人、選果する人、樽の中の変化を見守る人が必要です。戦後の再建とは、一人の英雄がシャトーを救った場面ではなく、働く場と技術の共同体を組み直す仕事だったはずです。
同時に、復興期のラフィットには幸運な年もありました。1945年、1947年、1949年など、戦後初期のヴィンテージは高く評価され、傷ついた名声の回復を助けました。
ただし、優れた年が自動的に復興をもたらしたのではありません。その年の葡萄を選び、醸し、熟成させ、市場へ届ける体制が戻って初めて、自然の恵みは評価へ結びつきます。
1974年、運営はエリーから甥のエリック・ド・ロートシルトへ引き継がれました。エリックの時代には、畑と醸造への投資、技術体制の強化が進みます。
1987年には建築家リカルド・ボフィルが設計した円形の熟成庫が完成しました。16本の柱を持つ地下空間は、単なる目を引く建築ではなく、多数の樽を扱う生産施設です。歴史ある外観の陰で、ワイン造りの環境は時代に合わせて更新されました。
ラフィットを「昔から変わらない名門」と見ると、この更新は矛盾に感じられるかもしれません。
しかし実際には、長く続くための変化こそが継承の中心にあります。受け継ぐとは、過去の完成品を保管することではなく、次の収穫に耐えられる状態へ毎年つくり直すことなのです。
サスキアの世代へ——二十年先の一本を、いま決める

2018年、エリックの娘サスキア・ド・ロートシルトが、ドメーヌ・バロン・ド・ロートシルト(ラフィット)の経営を引き継ぎました。
31歳での就任は、ボルドーの第一級シャトーを率いる世代交代として広く報じられました。ジャーナリストとして働いた経験を持つ彼女は、ロートシルト家の第六世代として、ラフィットだけでなく世界各地に広がったワイン事業を担っています。
現代の継承者が向き合う危機は、戦争やフィロキセラと同じ姿では現れません。気温上昇、乾燥、極端な天候、生物多様性の低下。長年その土地に適してきた栽培方法や台木が、これからも同じように働くとは限らない時代です。
ラフィットの現場では、古い区画をいつ抜き、いつ植え直すかという判断が、数十年単位で行われています。樹齢を重ねた葡萄樹は収量が減る一方、質の高い実をもたらすことがあります。
弱った樹だけを一本ずつ補うのか、区画全体を抜くのか。全てを抜いた後は、土を裸のままにせず、草や豆科植物を育てながら数年間休ませます。新しい樹を植えても、本来の力を発揮するまで十年、十五年、時には二十年ほどかかります。
技術責任者エリック・コーラーは、古い「マミゼル」の区画を例に、2027年ごろに植え直した樹が、ラフィットのワインとして力を示すのは2047年ごろかもしれないと説明しています。
これはワイン造りの時間感覚を象徴する話です。今日の責任者が選んだ苗木の結果を、別の世代が確かめる。いま下した判断が正しかったかどうかを、自分自身では最後まで見届けられないことさえあります。
そのため、現在のラフィットでは、優れた古樹から穂木を選び、畑に蓄えられた遺伝的な多様性を次へ残す「マサル・セレクション」も進められています。一律のクローンに揃えるのではなく、区画の中で長く生き、よい実を結んできた個体を観察して選ぶ方法です。
これは過去への郷愁ではありません。気候が変わる未来に備えるため、過去の畑が持っていた幅を資源として残す試みです。
歴代の当主だけでなく、技術者や栽培チームの名前と判断が見えるようになったことも、現代の変化でしょう。かつて記録の陰に隠れがちだった「畑を実際に受け渡す人びと」が、継承の物語の前面に現れ始めています。
まとめ|ラフィットの歴史が教える、受け継ぐということ

シャトー・ラフィット・ロートシルトを築いたのは誰か。その問いに、一人の名前だけで答えることはできません。
中世から残った土地の名がありました。
17世紀に葡萄園の形を整えたセギュール家がいました。
18世紀には品質を高め、宮廷や国外の市場へ名を運んだ人びとがいました。
1855年には、長年の取引と評判が格付けという制度に刻まれました。
1868年、ジェームズ・ド・ロートシルトは、すでに名声を持つ土地を買い、その死後は息子たちが予想外に早い継承を引き受けました。
さらに、病害、寒波、恐慌、戦争のたびに畑を立て直した人びとがいます。
戦後の再建を率いたエリー、技術と設備を更新したエリック、気候変動の時代に第六世代として先を見ようとするサスキア。そして、記録に全員の名が残らなくても、毎年の畑とセラーを守ってきた働き手たちがいます。
ラフィットが受け継いできたものは、変わらない方法ではありません。むしろ、土地の個性を損なわないために、方法を変える覚悟です。フィロキセラの後には台木を変え、戦後には畑と設備を再建し、現代には古樹の遺伝的な幅を残しながら乾燥に備えます。
一本の古いボトルには、その年の天候だけでなく、その時代に人びとが何を守り、何を変えたかが閉じ込められています。ラフィットの名声を長くしたのは、伝統を動かさない力ではありませんでした。自分より先の世代から土地を預かり、自分より後の世代が使える形で返そうとする、静かな判断の連続だったのです。
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