黒い鳥の名を持つメルロー|ボルドーの畑から世界へ渡った、早熟な葡萄の物語
丸みがあり、親しみやすい赤ワイン。メルローについて、そんな説明を目にすることがあります。けれども、この葡萄が歩んできた道は、決して穏やかな一本道ではありません。 名が記録に現れたのは18世紀のボルドーです。 19世紀には害虫がヨーロッパの畑を襲い、20世紀には霜や腐敗が栽培家を悩ませました。その一方で、メルローはボルドー右岸の粘土質の土地で存在感を増し、やがてイタリア、アメリカ、チリをはじめ各地へ渡っていきます。 2009年にはDNA解析によって、長く分からなかったもう一方の親品種まで突き止められました。 ...
エーバーバッハ修道院を受け継いだ人びと|900年のワインを守った選択
ドイツ・ラインガウの森に抱かれたエーバーバッハ修道院には、ひんやりとした石の空間と、長い眠りから目を覚ましたような大きな木製の圧搾機が残っています。 かつて修道士と在俗兄弟たちが暮らした場所は、いまもワインと切り離せません。けれども、1136年から現代まで、同じ組織が途切れず経営してきたわけではありません。 修道院共同体は1803年に解散し、建物は刑務所や療養施設などにも使われました。所有者はナッサウ、プロイセン、ヘッセンへと移り、20世紀末には建造物を守る財団が生まれています。 それでも「エーバーバッハ ...
シェリーの葡萄畑はなぜ白い大地に根づいたのか|アルバリサと海風、人がつないだ土地の記憶
スペイン南部、アンダルシア州カディス県の内陸を走ると、丘が突然、白く光って見える場所があります。雪でも砂浜でもありません。乾いた土の上に、低く仕立てられた葡萄樹が列をつくっています。シェリーの故郷、ヘレスの葡萄畑です。 グラスの中のシェリーは、フィノの淡い色、オロロソの深い琥珀色、ペドロ・ヒメネスの濃密な甘さと、驚くほど多彩です。その違いは醸造や熟成によって生まれます。しかし物語の始まりは、樽が並ぶボデガよりも前、葡萄が根を下ろす土地にあります。 ここでは雨の多くが秋から春に降り、夏は強い日差しと乾燥に包 ...
ワインラベルの紋章は何を語るのか|家名、土地、権威を一枚に封じた印
古いワインのラベルに描かれた盾、王冠、獅子、鍵、蔓草。私たちはその細部を読めなくても、どこか由緒ありげな空気を感じ取ります。 けれども、盾が描かれているからといって、すべてが正式な紋章とは限りません。家に伝わる紋章もあれば、都市や宗教組織の印、品質を訴えるブランドマーク、単に古風な印象をつくるための装飾もあります。 ワインラベルは、中身の名前や産地を知らせる表示であると同時に、造り手が「私たちは何者か」を語る小さな舞台です。 そこに紋章が置かれるとき、語られているのは血筋だけではありません。家業を受け継い ...
ドウロに辛口赤ワインの未来を開いた一本|バルカ・ヴェーリャ、1952年の挑戦
ドウロと聞いて、まずポートワインを思い浮かべる人は多いでしょう。発酵の途中でブランデーを加え、ブドウの甘みを残した酒精強化ワインです。 ところが1952年、その名声に支えられてきた谷で、甘くも酒精強化でもない赤ワインが仕込まれました。後に「バルカ・ヴェーリャ」と呼ばれる一本です。 現在ではドウロ産の辛口赤ワインは珍しくありません。しかし、バルカ・ヴェーリャが生まれた当時、ドウロの上質なブドウは主にポートワインのためのものと考えられていました。 暑く乾いた土地で育つブドウから、力強さだけでなく、長く熟成でき ...
ピノ・ノワールはどこで生まれたのか|中世の記録とDNAが照らす、故郷から新天地への旅
ピノ・ノワールの故郷はどこでしょうか。 ワインに親しんでいる人なら、まずブルゴーニュを思い浮かべるかもしれません。細やかな香りをもつ赤ワインで名高いこの土地では、何世紀にもわたってピノ・ノワールが育てられてきました。 現在もブルゴーニュを代表する黒葡萄であり、畑や村の名と結びつきながら、この土地の歴史を語る存在になっています。 しかし、「ブルゴーニュで古くから栽培されてきた」ことと、「ブルゴーニュのどこかで最初の一本が生まれた」ことは同じではありません。ピノ・ノワールはあまりにも古く、誕生した年も、育てた ...
壺の肩に書かれたヴィンテージ|古代エジプトのワインラベルが残した土地と人の記録
一本のワインを手に取るとき、私たちはラベルから産地や収穫年、造り手を読み取ります。その小さな紙片が、土地と時間と人を結ぶ入口になっています。 けれども、そうした情報を容器に記す発想は、近代の瓶詰め文化だけのものではありません。今から三千年以上前、古代エジプトのワイン壺の肩には、黒いインクで文字が書かれていました。そこには王の治世年、ワインを生んだ所領や葡萄園、管理に携わった人物、ときには品質を示す語まで並びます。 しばしば「世界最古のワインラベル」のように紹介される記録です。 しかし、現代のボトルラベルと ...
最後の「i」に眠る土地|トカイ・アスーは、どのようにトカイの名をまとったのか
琥珀色のワインを前にして、「トカイ」は葡萄の品種名だと思う人がいるかもしれません。しかし、トカイはまず土地の名です。 ハンガリー北東部、ゼンプレーン山地の裾野とボドログ川、ティサ川が出会う一帯。その土地から生まれ、定められた方法で造られたワインが、ハンガリー語で「トカイの」を意味するTokaji(トカイ)の名をまといます。 なかでも世界に土地の名を知らせた一本が、貴腐葡萄から造るトカイ・アスー(Tokaji Aszú)です。 甘口であることだけが、このワインの本質ではありません。霧と日差し、火山由来の多様 ...
ムートンを変えた人びと|一つのシャトーを未来へつないだ家族の選択
ボルドーの「五大シャトー」の一つとして知られるシャトー・ムートン・ロートシルト。その名からは、揺るぎない名門、完成された伝統、何世代にもわたって変わらない格式を思い浮かべるかもしれません。 けれども、その歴史を人の歩みに沿ってたどると、見えてくるのは「変わらないもの」よりも、むしろ節目ごとに下された大胆な選択です。 1853年、ナタニエル・ド・ロートシルト男爵は、ポイヤックのシャトー・ブラーヌ=ムートンを競売で取得しました。1922年には、20歳の曾孫フィリップが運営を引き受けます。彼は瓶詰めの仕組みを変 ...
ドウロの岩山は、なぜポートワインの故郷になったのか| 川、段々畑、境界が刻んだ時間
ポートワインの故郷を思い浮かべると、深い色のワインや、河口の町ポルトに並ぶ熟成庫が先に浮かぶかもしれません。けれども、その物語の出発点は海辺ではありません。 大西洋から内陸へさかのぼり、山々に囲まれたドウロ川上流域に入ると、岩の斜面に幾重もの畑が刻まれています。ここが、ポートワインの原料となるブドウを育てるドウロ原産地呼称地域です。 その風景は、自然がそのまま残ったものではありません。 湿った西風を遮る山、夏に乾く谷、砕けやすい片岩、川へ落ち込む急斜面。ブドウ畑には不向きにも見える条件に、人びとは石を積み ...
海に鍛えられ、島の名をまとう|マデイラ・ワインはなぜ「マデイラ」になったのか
大西洋に浮かぶマデイラ島と、琥珀色の酒精強化ワイン。両者は同じ「マデイラ」という名を持っています。 けれども、この一致は単なる産地表示ではありません。山が海へ落ち込む急斜面、火山に由来する土壌、畑へ水を運ぶレヴァダ、樽を赤道の向こうへ運んだ船、そして熱と酸素を避けるのではなく味方につけた熟成。島で重ねられた選択のすべてが、ワインの名の内側に折り畳まれています。 マデイラ・ワインは、しばしば「航海中の偶然から生まれたワイン」と語られます。 確かに海は、その個性を形づくった大切な舞台でした。しかし、ひとつの樽 ...
シェリーは、なぜ土地の名になったのか|白い土、海風、樽の時間が育てた「Jerez」の物語
アンダルシアの強い光を受けた丘は、遠くから見ると雪をかぶったように白く見えます。 けれど、そこにあるのは雪ではありません。海の記憶を含む石灰質の土、アルバリサです。その白い丘で育った葡萄が町へ運ばれ、天井の高いボデガで樽に入り、目に見えない酵母と長い時間に預けられると、やがて世界で「シェリー」と呼ばれるワインになります。 シェリーという言葉から、甘い琥珀色の酒を思い浮かべる人もいれば、食前に冷やして飲む淡い辛口を思い浮かべる人もいるでしょう。どちらも間違いではありません。フィノ、アモンティリャード、オロロ ...
シャンパーニュの地図を読む|4つの産地、319のクリュ、ラベルに残る村の名
「シャンパーニュ地方」と聞くと、ランスやエペルネを中心に、ブドウ畑がひと続きに広がる風景を思い浮かべるかもしれません。けれど、実際の畑は一枚の大きな絨毯ではありません。 森に縁取られた丘、マルヌ川沿いの斜面、白亜質の長いコート、そこから南へ大きく離れたオーブ県の畑まで、ブドウ畑は島々のように点在しています。 さらに地図には、地方、県、産地、村、クリュ、リュー・ディという異なる種類の名前が重なります。 ボトルには「Grand Cru」「Premier Cru」、村名、畑名、生産者を示す二文字のコードが並ぶこ ...
小さなラベルは、なぜ美術館になったのか|芸術家がワインの一年を描くまで
ワインの棚の前で、味の説明より先に一枚の絵へ目を奪われたことはないでしょうか。 葡萄の房、動物、人物、幾何学模様。小さな紙片に置かれた図像は、産地や生産者名を伝えるだけでなく、まだ栓を抜いていない一本に想像の入口をつくります。とりわけ、毎年異なる芸術家が作品を寄せるラベルは、一本のワインを「その年にしか存在しないもの」として強く印象づけます。 しかし、芸術家ラベルは最初からワイン文化に備わっていた習慣ではありません。 瓶詰めと流通の形が変わり、印刷技術が広がり、生産者が自らの名で一本を世に送り出すようにな ...
カベルネ・ソーヴィニヨンはどこで生まれたのか|DNAがほどいた系譜と、世界へ根づくまで
ボルドーの格付けシャトー、カリフォルニアの陽光、チリの乾いた谷、オーストラリアの古い葡萄畑。遠く離れた土地のラベルに、同じ名前が記されています。カベルネ・ソーヴィニヨンです。 世界で最もよく知られた黒葡萄の一つでありながら、その誕生を見た人はいません。誰かが交配を計画した記録も、最初の一本を植えた畑の記録も残っていません。長いあいだ、人びとは葉の形や房の姿、古い呼び名を手がかりに、この葡萄の過去を想像してきました。 ところが20世紀の終わり、若い葉から取り出されたDNAが、古い家系図の一部を思いがけない形 ...
壁の向こうに守られたワイン|第二次世界大戦、占領下のフランスでセラーは何を守ったのか
地下のワインセラーに新しい壁を築き、その向こう側へ大切な瓶を隠す。井戸の底へシャンパーニュを沈める。古い埃や蜘蛛の巣まで使い、そこには何もないように見せかける。 第二次世界大戦中のフランスワインをめぐっては、そんな逸話が数多く語られてきました。 暗い地下蔵、足音を忍ばせる造り手、壁の前を通り過ぎるドイツ兵。物語としては鮮やかです。しかし、隠されたワインの歴史を本当に理解するには、秘密の壁だけを見ていては足りません。 なぜワインは狙われたのか。占領軍は、ただ奪っただけだったのか。造り手たちは一枚岩で抵抗した ...
シャンパーニュのブドウ畑をワインの土地にしたもの|冷涼な空、白亜の地下、人が引いた境界
シャンパーニュと聞いて、最初に思い浮かぶのはグラスを立ちのぼる泡かもしれません。けれど、その泡よりもはるかに長い時間を生きてきたものがあります。 フランス北東部の冷たい空気、白く崩れる石、川に沿って折り重なる丘、そして斜面に線を引くように植えられたブドウの列です。 シャンパーニュは、製法だけで生まれたワインではありません。同じ方法で発泡性ワインを造っても、それがただちにシャンパーニュになるわけではないからです。名を支えているのは、法律で定められた土地で育つブドウと、その土地に合わせて積み重ねられてきた栽培 ...
シャトー・ラフィット・ロートシルトをつないだ人びと|土地を守り、ワインを未来へ渡した選択
「ラフィット」という名を聞けば、世界で最も名高いワインのひとつを思い浮かべる人は多いでしょう。けれども、その長い名声を、ひとりの創業者が築いたわけではありません。 シャトー・ラフィット・ロートシルトの歩みをたどると、目に入るのは華やかな称号や高価なボトルだけではありません。 畑をまとまりある葡萄園へ変えた人、宮廷や国外へ名を届けた人、すでに高い評価を得ていた土地を買い受けた人、戦争で傷んだ畑を立て直した人、そして気候が変わる時代に、数十年先の葡萄樹を思い描く人がいます。 もちろん、歴史に名が残りやすいのは ...
ポートワインは、なぜ「ポルト」の名をまとったのか|ドウロ、河港、制度がつないだ一本
ワインの名には、土地の名を冠したものが多くあります。 「ポートワイン」も、そのひとつです。英語では Port、ポルトガル語では Vinho do Porto。ラベルにある「Porto」は、ポルトガル北部の都市ポルトを思わせます。では、ポートワインはポルトの街のブドウから造られるのでしょうか。 答えは、少し意外です。 ブドウが育ち、ワインが生まれる中心地は、海辺のポルトからドウロ川をさかのぼった内陸の山あいです。ところが、そのワインは川を下り、ポルトの対岸にあるヴィラ・ノヴァ・デ・ガイアの倉庫に集まり、ポル ...


















